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つながりから 新しい価値創出を 地域に 社会に

『“悟りの絵”を目指して』 川崎さんの「コレマデ/コレカラ」①

「コレマデ/コレカラ」4月の話し手は、池田町の奥深い山に暮らす総合芸術家・川崎満孝さん。
その深く豊かな語りとパフォーマンスに心を動かされた参加者・福島修道さんから、珠玉の感想文が届きました。
その全文を2回に分けてご紹介します。
第1回は、川崎さんの絵との出会いから池田町にたどり着くまでの“魂の旅路”をたどります。

川崎さんは現在、安曇野池田町の山奥の古民家にひとり住む。 求道の画家であり、総合芸術家。仙人のような人だと言われたりもしている。

川崎さんには、①優れた画家として、②メルヘンチックな音楽パフォーマンス大道芸人として、③永遠の魂の修行者として、、、の三つの姿がある。

その人物がほんものかどうかの厳しい観察眼を持つ方が、川崎さんを『あの気品のある顔相は、今生だけでの修行ではできない。前世からのものだ。決してぶれない人物だと述べた』

絵画、版画、陶芸などの作品は、鮮やかな色彩で明るい雰囲気を持つ。
高名な美術評論家、久保貞次郎氏は、川崎さんを日本のアンリ・ルソーと評し、貧乏な若き日の川崎青年を激励。その作品を、生涯買い続けて応援した。

(川崎さんの心の旅)
一期一会! 人との出会いの縁が、その人の人生を創っていく。
中学生になった時、「1番サボれるクラブは美術部だ」と聞いて、絵が好きでもなんでもなかったけれど入部した。
それが一生の運命を決めた。

中学校の美術教師高森俊は、「学校教育で傷つかないように、生徒の絵をほめて激励し、描く楽しさと勇気と自由と喜びを取り戻させる」児童画運動家だった。

生徒に「先生と呼ばないで、友達と同じように高森さんと呼んでくれ」と言う先生だった。にこやかに微笑む、優しい眼差しの高森先生に惹きつけられた。親しみと好感を覚えた。

先生は物語の本を読み、その物語に出てくる。何かを想像して絵を描くように言った。毛むくじゃらの原始人が、鹿をとってきて、洞穴で火を焚いて、それを食うと言う内容だった。大きな衝撃だった。
それまでは、目に見えないものを想像して絵を描いたことがなかった。小学校時代に描かされた絵は、静物画や、風景画や、人物画がで、遠近法や、明暗などが強調された、いわゆる上手に描かなければ良い子だとされない形式的なものであった。

高森先生の授業は、自由な雰囲気と開放感があり、楽しいものだった。1枚の絵を描き上げた。それは忘れることのできない、精神的開放感をもたらした。頑固で孤立していた満孝少年は、1人の共鳴する人を得たと言う喜びを得て、希望のようなものが見えた。

高森先生は、その後成長して放浪の旅の画家となった教え子を「現代に生きる最も優れた芸術家だと声を大きくして言える」と支持してくれた。

25歳、求道の放浪画家として、ふるさと大宮を旅立つ。

始めは日本放浪の旅に、その後には世界への旅へ。
東南アジア、インド、ネパール中近東と求道の旅を続けながら絵を描く。特にインドではヨーガ仏道の修行に励んだ。
さらに東アフリカのケニア、タンザニア、ヨーロッパのイギリス、フランス、オランダ、ドイツ、オーストリア、イタリア、スイス、スペインと旅をした。

川崎さんは当時の決意を次のように書いている(「道~KAWASAKI 心の旅」2010/創風社 より抜粋)・・・

私は親も兄弟も、友人も、恋人も捨てて、孤独の旅へと出発した。家や土地や物質的なものへの執着が既に消えていた。
 日本の社会制度には甚だ疑問を感じ、精神的に人間が奴隷のようになって生きるのには我慢できなかった。私は自由な生き方の中から人間としての理想的な生き方を発見し、理想的な世界を創造したかった。そのために私は1人になる必要を感じていた。
 私はありきたりの画家になりたくなかったし、かつて誰も描いたことのないような、悟りの境地を表したような絵を描きたいと思っていた。そのためには、この世の現実のありとあらゆるものを知る必要があると感じていた。美術学校に行くよりか、私にとっては、あらゆる体験をする方がより重要であった。
 
 多くの人々が望むような、物質的豊かさと、生活の安定と、先の見えた、あてがわれたような生き方をするのは、私には興味がなかった。物質文明の快楽的世界にどっぷり浸かり、自己の快楽のみ満たして何になろう。そんな現実社会は、ありとあらゆる腐敗に満ち溢れた虚妄の世界であり、神の世界からは遠く隔たった世界なのだ。
 しかしそれでも生きていくためには、厳しい現実とたたかいながら生きていくほかない。高く望まなくても、最低限度の経済的自立は必要である。私はそのために働かざるを得なかった。無駄をなくし、できるだけ節約し、自由な時間を作らなければならない。そうする以外には、自由になるということは不可能なのだ。
 理想を現実にすると言う事は、困難なことだが、実現していかなければ、生きていることが虚しく感じるであろう。その頃の私はかごの鳥だったが、広々とした世界に飛び出した。あまり広すぎて、何をしてよいか、どこに行ったらよいか、戸惑ったが、まず日本を知ろう。日本中を見、様々な自然を見、人々と触れ合い、より理想的な社会を創造し、それらを絵に現していこう。
 それから、日本中を歩いたら、世界中を見て歩こう。ありとあらゆるものをこの目で見、このからだで感じるのだ。そうすれば、私の求めているものはつかめるかもしれない。

 おそらく世界中を回れば10年以上はかかるに違いない。いくらかかっても、目的を達するまでは、断じて帰るまい。そう心に強く誓った。
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(東南アジア、インド、中近東方面を4年半近くにわたって旅をした)         
 私は大きく変わって、帰ってきた。世界中の全てを見尽くしたかのように思えるものであったし、すさまじいものであった。

 ~毎日毎日が冒険の連続であり、新しい出来事の連続であり、新しいものの発見の連続であり、悟りに近づくための黙想の連続でもあった。
 喜び、感動、苦しみ、病気、これらを絶えず繰り返した試練の旅でもあった。私は世界中を歩かずして旅の目的を達してしまい、旅の終わりを感じた。そして、世界中を歩きたいと言う欲望も消え去ってしまった。
 私は日本でも、他のどこでも、安らぎと平安の中に生きられることを体得した。

 ここまでが第1回。続く第2回では、池田町での生活や音楽パフォーマンスと続きます。お楽しみに!



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