もし、社会のほとんどの人が「自分だけよければいい」と思って暮らすようになったら・・
いったい、どんな世の中になるのでしょうか。
きっとそこでは、ゴミは拾われず、道路の雪も誰もかかず、声をかけあうこともなく、困っても誰にも頼れず、誰も助けに来ない。おかしなことが起きても、「自分じゃないから関係ない」と、みんなが目をそらす。
そしてある日、自分が困ったとき、「誰も助けてくれない社会」を、自分も作っていたことに気づくのかもしれません。
「頼らない社会」は、じつはとても脆い
一見すると、「自分のことは自分でやる」というのは、自立的で立派な姿勢に見えます。でも、それが行きすぎて「他人に迷惑をかけないように生きなければ」になり、さらに「他人のことに構わないのがスマート」になっていくと、社会の中から“支え合いの回路”がごっそり失われていきます。
- 助けてと言えない
- 手を差し伸べづらい
- お互い様という感覚が薄れていく
そんな空気の中では、人も、地域も、静かに孤立していきます。
「自分さえよければ」という空気が壊していくもの
「自分さえよければ」という思いは、ある意味で本能的です。でも、それが社会の前提になってしまうと、どうなるか。
たとえば・・
- 地域のルールを守らない
- 公共の場を私物化する
- 自分の都合で制度だけを利用し、関係性を築こうとしない
その結果、公共の信頼や、暮らしの前提が崩れていく。
そして、誰もが不満を抱えるようになっていきます。「なんで自分ばかり負担してるんだ」、「助けても、報われないじゃないか」、「結局、みんな自分のことしか考えていない」
そうして、支え合いの文化が一気にしぼんでしまう。それは、自分の暮らしの土台が脆くなることと、じつは同義なのです。
地域でも広がる“自分だけ”の風景
町内会、見守り活動、災害時の助け合い、消防団・・
こうした仕組みは、人と人が「面倒だけど関わる」ことで、なんとか続いてきました。
でも最近では、参加者が減り、担い手が高齢化し、「やらない理由」のほうが優先されがちです。
- 忙しい
- 知らない人と関わりたくない
- 自分にメリットがあるとは思えない
その結果、“共に生きる”ことへの想像力が弱くなり、助け合いのネットワークがほどけていってしまっています。
「自分だけ」では守れない。だからこそ“つながり”が必要
災害が起きたとき、誰が助けてくれるのか。高齢者が倒れていたとき、誰が気づいてくれるのか。
答えは、マニュアルでも行政システムでもなく、日常の中にいる“誰か”です。
「自分だけよければ」と考える人が増えれば増えるほど、結局は自分すら守れない社会ができあがってしまう。
その危うさを、私たちはもう少し共有してもいいのかもしれません。
“思いやり”は、めぐりめぐって自分に返ってくる
ここで、少し補足しておきたいことがあります。
相手のことを思いやる、誰かに少し気を配る・・そうした行為は一見、「自分を犠牲にすること」のように思われがちです。
でも実は、それこそが、自分の幸福感や安心感に深くつながっているという研究や実感が、近年さまざまな形で示されています。
- 誰かと関わることが、孤独感を和らげる
- 小さな親切が、自己肯定感や意味感を生む
- 支え合いがあることで、不安定な状況でも前向きに暮らせる
つまり、つながりは“他人のため”だけじゃない。自分自身を支えるものでもあるのです。
このテーマについては、また別の機会にゆっくり掘り下げてみたいと思います。
つながりは、もっと“ゆるくていい”
大事なのは、四六時中誰かとべったりつながることじゃありません。たまに声をかける、ちょっと気にかける、困っている人を見かけたときに「大丈夫?」と言える空気がある。
それだけでも、社会はずいぶん持ちこたえやすくなる。
強固な制度より、ゆるやかに助け合える関係性のほうが、案外、社会を長く支えてくれるのかもしれません。
次回は、「今・金・自分」をどう取り戻すか
次回はいよいよ最終回。
「今だけ、金だけ、自分だけ」を否定するのではなく、“だけ”の外側にある可能性を見つめ直しながら、それぞれを健やかに取り戻す方法を考えてみます。
今を生きること。お金を大事にすること。自分を守ること。
そのどれもが、責められるものではない。
でも、「だけ」に閉じないために、何ができるか・・
その問いを、一緒に考えてみませんか。
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