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つながりから 新しい価値創出を 地域に 社会に

町内会はなぜ「うまくいかなくなった」のか?~フリーライダー問題とペッカネンの示した日本の構造


最近、どこの地域でも同じ言葉を耳にします。
「町内会の役が回ってくるのが負担だ」
「担い手がいない」
「若い人が参加しない」

しかし、この状況を「地域のつながりが弱くなった」「住民の意識が低くなった」と個人の資質で説明すると、本質を見誤ります。

問題は「人」ではなく「構造」だからです。

小室直樹が見抜いた「構造的アノミー」

以前のブログで紹介しましたが、社会学者・小室直樹は「構造的アノミー」という概念で、制度と現実のズレを説明しました。
制度は存在している→しかし、それを支える意味や動機が失われる→結果として制度が形骸化する

町内会にもこの現象を見ることができます。
制度としての町内会は残っている→しかし「自治の組織」としての実感は弱まりつつある→負担の受け皿のように感じられる場面が増える

つまり、町内会の問題は組織が古いことではなく、制度の役割と社会条件の変化のズレにあります。

町内会は本来、きわめて合理的な「生活インフラ」だった

かつて町内会は、生きるための「必需組織」でした。

  • 防災・治安(自警)
  • 清掃・水利(ライフライン)
  • 冠婚葬祭・相互扶助

これらを共同で行わなければ、生活そのものが成り立ちませんでした。参加しないと生活が不利になる「排除の論理」が働いていたからこそ、人は合理的に参加したのです。ところが、現代では前提条件が変わりました。

行政サービスの整備: 公共サービスの範囲が広がり、税金で解決できることが増えた。
市場サービスの拡大: 掃除も警備も介護も、お金で買えるようになった。
個人の自立: 相互扶助に頼らなくても、個人で生活が完結できるようになった。

つまり、町内会の性質が「生活必需の組織」から「公共財を維持する組織」へと変質したのです。

ソーシャルキャピタルとしての町内会 ~見えにくい価値が失われつつある

ここで重要なのは、町内会がもう一つの側面を持っていたという点です。それが「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)」としての機能です。ソーシャルキャピタルとは、人々の間の信頼関係やネットワーク、互酬性の規範など、目には見えないが社会を豊かにする「資源」を指します。

町内会は、この資源を生み出す装置でもありました。

顔の見える関係: 隣人を知り、声をかけ合える関係が自然に育まれた。
情報の流通: 地域の出来事や困りごとが、人を介して共有された。
相互信頼の蓄積: 助け合いの経験が繰り返されることで、「困ったときは助けてもらえる」という安心感が育った。
集合的問題解決: 個人では動きにくい地域課題を、共同で解決する文化が形成された。

こうした資源は、防災や防犯、子育て支援、高齢者の孤立防止など、あらゆる場面で「潜在的な力」として機能してきました。しかし現代では、この「目に見えない価値」が可視化されにくいのです。そのため、町内会への参加を判断するとき、人々は「目に見える負担」だけを評価してしまいます。ソーシャルキャピタルは、蓄積には時間がかかりますが、失われるのは一瞬です。一度途絶えた信頼関係やネットワークを再構築するには、膨大なコストがかかります。

フリーライダーは「必ず」発生する

そして、町内会に加入しないけど、公共サービスは受けるという「フリーライダー」についても大きな問題となっています。
防災、見守り、景観、祭礼……これらは「公共財」です。公共財には大きな特徴があります。
それは「参加(負担)しなくても、その恩恵を受けられてしまう」ということ。
そして、町内会や自治会には加入について強制力はありません。
すると、合理的に考える人ほどこう判断します。「誰かがやるなら、自分はやらなくていい」これが、フリーライダーです。

これは道徳の問題ではありません。制度設計の問題なのです。人口が増えていた時代は、抜けた穴を新しい住民が埋める「補充」が効きました。しかし、人口減少社会では違います。負担は残った人に固定化され、役は回り続け、「やる人ほど疲れ、やらない人ほど距離が生まれる」・・・
この「不公平感」こそが、現在の地域の空気を重くしている正体です。

そして皮肉なことに、フリーライダーが増えるほど、ソーシャルキャピタルも同時に失われていきます。顔を合わせる機会が減り、信頼が薄れ、共同で動く文化が消えていく。町内会が「機能」だけでなく「関係性」としても空洞化しているのです。

ペッカネンが指摘した「日本の市民社会」の歪み

この状況は、偶然ではなく構造が生み出しています。アメリカの政治学者ロバート・ペッカネンは、日本の市民社会を「二重構造」という言葉で説明しました。

大規模な地縁組織(町内会など): 数は多いが、政治的に動かず、行政の補完を担う。
小規模な専門団体(NPOなど): 専門性はあるが、資金や規模が小さく、孤立している。

なぜこうなったのか。彼の結論は「文化」ではなく「国家の制度設計」です。行政は地域組織を「安価で便利な協力装置」として活用し続けました。一方で、住民が自律して社会課題を解決する「独立した市民団体」が育ちにくい制度を長く維持してきました。
つまり町内会は、住民のための「自治組織」というより、「行政機能の末端(サービス提供の窓口)」として発達してしまったのです。
この構造は、ソーシャルキャピタルの観点からも致命的です。なぜなら、行政の下請け業務に追われるほど、住民同士が本来の「つながり」を育む時間と余裕が失われるからです。

仕組みの限界が「担い手の疲弊」を生んでいる

町内会が行政の末端である限り、役割が減ることはありません。一方で、生活必需ではなくなったため、参加動機は弱まり続けます。

  1. 行政の下請け機能だけが残る
  2. 参加する直接的なメリットが感じられない
  3. 合理的に「参加しない」人が増える
  4. 残された一部の住民(担い手)が過重労働で疲弊する

現在の崩壊寸前の状況は、この構造が生んだ「きわめて合理的な帰結」です。

「意識」ではなく「前提」を書き換える

ここでよく行われる「若者向けのイベント」や「意識改革」は、残念ながら根本的な解決にはなりません。なぜなら、「参加しなくても地域が回ってしまう構造」そのものは変わっていないからです。

私たちが向き合うべきなのは、人の気持ちを変えることだけではなく、「素人の住民にすべてを背負わせる仕組み」そのものを、どうアップデートするかです。同時に、ソーシャルキャピタルという「目に見えない資源」の価値を、どう可視化し、どう再評価するかも問われています。町内会を単なる「業務分担の組織」から、「信頼と互酬性を育む場」への再定義が必要なのです。

では、具体的に疲弊している町内会や自治会を私たちはどうすればよいのか? 「もっと頑張る」でも「町内会をなくす」でもない第三の方法とその可能性について、また別の機会に記事で提案したいと思います。

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