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つながりから 新しい価値創出を 地域に 社会に

社会課題の複雑さは「どこから見るか」でほどけはじめる 〜俯瞰する力の必要性〜

社会は今、これまでにないスピードで複雑化しています。
情報はあふれ、出来事は多層的につながり、ひとつの「正解」で片づけられない問題ばかりが目の前に立ち上がってきます。そんな時代において、私たちにとって何より大切なのは、「どのように“見る”か」という姿勢そのものではないでしょうか。目の前の出来事を、“そのまま見えている通り”に理解しているつもりになること、私たちにもよくあります。
でも実際には、どこから見るか、どう捉えるかで、物事の意味ってまったく変わってくる。そんな体験を、地域の現場で何度もしてきました。

見方ひとつで、同じ出来事が「課題」にもなれば、「可能性」にもなる。

これは行政や地域づくりに限った話ではなく、ビジネスや教育、日常のコミュニケーションでもきっと同じ。
だからこそ、「視点を切り替える力」や「俯瞰して見る力」を、意識的に育てていく必要があると感じています。

木を見て、森を見るということ

「木を見て、森を見る」──
この言葉、よく聞くフレーズではありますが、私たちにとっては現場での実感そのものでもあります。

たとえば、不登校の子どもがいる。
商店街のシャッターが降りたままになっている。
一人暮らしのお年寄りが、誰にも看取られずに亡くなっていた。

こうした一つひとつの出来事は、「木」として私たちの前に現れます。まずはその木を見つめ、声に耳を澄ませること。現場のリアリティにきちんと向き合うことが、何より大事な出発点です。

でも、木だけ見ていると、迷子になる

社会課題は、“点”ではなく“網”のように広がっています。だから、個別の現象にだけ目を向けていると、いつのまにか全体像を見失ってしまう。
たとえば、不登校という現象の背景には、画一的な学校制度、家庭のケア環境、地域における居場所の不足など、さまざまな要因が絡んでいるかもしれません。
空き店舗の問題も、商売の失敗というよりは、都市政策の方向性や人の流れの変化が根っこにあることが多い。
孤独死だって、住まいのあり方や働き方、家族のかたち、そして地域の関係性とつながっています。

だから、「森」を見る──つまり、構造や制度、背景にまで目を向ける視点が必要なんだと思います。

視座を高くするということ

もう少し引いて見てみると、「森」がどう育ってきたかが見えてくるような気がします。

この制度は、どういう歴史の中で生まれてきたんだろう?
他の地域や国では、同じような課題にどう取り組んでいるんだろう?
今の「当たり前」は、誰がどんな価値観でつくってきたものなんだろう?

視座を高くして、時間軸や空間軸を少し広げてみると、見えてくるものが変わります。
今ここにある出来事が、どこからきて、どこへ向かおうとしているのか──そうした流れの中で見えてくると、問題の輪郭がぐっと立体的になってきます。

一つの問題には、複数の顔がある

地域の課題って、立場によってぜんぜん違う風景に見えるものです。
たとえば「過疎化」という問題。
行政にとっては、税収減と公共サービス維持の困難。
高齢の住民にとっては、医療や交通手段の喪失。
若者にとっては、仕事や出会いの不足。
商店主にとっては、お客が減って経営が続けられないこと。
環境団体にとっては、放置林や生態系の劣化。

どれもが同じ現象を違う角度から見た姿で、それぞれが正しい。だからこそ、多面的に捉える視点がないと、合意形成もうまくいかないし、解決の糸口にもたどりつけないんです。

解像度を上げるということ

「なんとなく最近、空き家が増えてきたな」
「若い人、見かけなくなった気がする」──そんな印象からでもいいと思っています。
大事なのは、そこから少しずつ解像度を上げていくこと。

  • 国勢調査などの統計にあたってみる
  • 制度の背景にある政策思想をたどってみる
  • 住民の声や、根づいてきた文化・価値観に耳を澄ませてみる
  • 「なんとなくの違和感」の奥にある感情にも目を向けてみる

こうやって、抽象と具体を行き来しながら見つめていくと、最初はぼんやりしていた問題の“像”が、すこしずつくっきりと浮かび上がってくる。それが、「解像度を上げる」という営みなんだと思います。

ありがちな“見誤り”と、その背景にあるもの

私たちがこれまで関わってきた現場でも、こうした“見方の偏り”から来る行き詰まりは少なくありません。

  • 木だけを見て、全体の構造に届かない
  • 森だけを見て、当事者の声を聞き落としてしまう
  • 俯瞰するだけで、具体的な行動に結びつかない
  • 一つの視点にこだわって、かえって分断が深まってしまう

だからやっぱり、“どう見るか”を問い続けることって大事だなと思うのです。

“見る”ということの意味

社会課題は、「見方次第で意味が変わる」ものです。そして、“どう見るか”は、そのまま“どう関わるか”につながっていく。

木を見て、森も見る──それは私たちにとって、行動の出発点であり、思考の基本動作でもあります。

「見る」という行為には、知性だけでなく、姿勢も、覚悟も、優しさも含まれている。そんなふうに感じています。


次回予告「森の外側」も見るという視点へ

とはいえ、最近はこんな問いも出てきています。

木も見た。森も見た。──でも、それだけで十分なんだろうか?

構造や制度のさらに“外側”にあるもの──
それを成り立たせている価値観や文化、社会通念、そして「当たり前」を支えている私たち自身のまなざし。

次回は、「森の周囲まで見る」という視点に立って、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。
そして、「自分の見方そのものを見つめ直す」ための手がかりとして、“メタ認知”という考え方についても触れてみます。

どうぞ引き続き、お付き合いください。

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