「とりあえずお金を配ればいいじゃないか」
そう言われると、たしかに否定しづらい空気があります。
生活が苦しいとき。先行きが見えないとき。目の前に現金が届くというのは、やっぱりありがたい。
でもふと立ち止まって考えたくなることがあります。
「それで、本当にいいのかな?」と。
地方に増えている「配って終わり」型の支援
最近、地方自治体でもよく見かけるようになった「地域振興券」や「プレミアム商品券」。
地元の飲食店で使えるチケットや、キャッシュレス決済に対するポイント還元。
配れば地元の経済が回る、消費が活性化する──たしかに、わかりやすい施策です。
でも、使い切ってしまえば終わり。
次の施策が出るまで、また「待つ」ことになる。
「お金をもらう→使う→また困る→またもらう」のループの中で、
“地域の課題そのもの”が解決に向かっていない感覚を、現場にいる人たちほど強く持っているのではないでしょうか。
お金を配ることを否定しているわけではなく・・
もちろん、すぐに現金が届くことは救いになります。
それは否定できません。むしろ必要です。
でも問題は、「金だけ」に頼ってしまうと、制度のあり方そのものがどんどん軽くなってしまうこと。
金額だけが一人歩きし、仕組みや思想が置き去りにされる。
設計なき支援は、一時的な安堵はもたらしても、安心を育てることは難しいのです。
「再分配」って、本来はもっと豊かなものだったはず
税と社会保障。
それは「持てる人が持たざる人を支える」というだけではありません。
そこには、「社会全体がつながっている」という感覚や、「誰もが安心して生きていい」というメッセージが、制度として組み込まれているはずでした。
でも、支援が「いくら出すか」「もらうかどうか」だけになってしまうと、制度はだんだん“関係性のない取引”のようなものになっていく。
「金を出してるんだから文句言うな」とか、「税金払ってない人に配るのは不公平だ」
そんな空気が社会の中にしのび込み、支え合いの土台を静かに壊していくような気がするのです。
「金だけ」で社会は持たない
金額に注目が集まりやすいのは当然です。そこに即効性や“分かりやすさ”があるから。
でも、それだけではどうしても、見落としてしまうことがある。
- そのお金は、何を育てるためのものなのか?
- 支援される人と、支援する人との間に信頼は生まれているのか?
- そもそも制度は、誰にとって、どんな未来をつくるために存在しているのか?
目先のお金が必要なときに、「それでいいの?」という問いを投げるのは、たしかに勇気がいります。
でも、この問いを避け続けた先にあるのは、支援される側の孤立と、支援する側の疲弊だけなのかもしれません。
次回は「自分だけ」では続かない社会を考えます
次回は、「自分だけ」に偏った価値観が、共助や公共性、地域とのつながりにどう影響しているのかを掘り下げます。
誰かに頼ることが「甘え」とされ、「自分のことは自分で」という言葉が、いつしか“生き方の強制”になっているような空気。果たして、それで社会は本当に持続可能なのでしょうか?
次回も、じっくりご一緒できればと思います。
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