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つながりから 新しい価値創出を 地域に 社会に

「保守とは何か?」を問い直す~日本社会に“本当の保守思想”が育たなかった理由とその背景

いま、日本社会はこれまでにない変化の波の中にあります。急激な人口減少が社会の土台を揺らし、経済もまた、成長を前提とした仕組みではうまく回らなくなってきています。
それでも私たちは、「かつての成功体験」にどこかで引っ張られている気がします。
とくに高度成長期という時代の記憶は、すでに現実とは合わなくなっていても、無意識のうちに“正解”のように扱ってしまっている。そこに重なるのが、私たち誰もが持っている“現状維持バイアス”。
変わらなきゃいけないとわかっていても、動くのが怖い。面倒に感じる。そんな気持ちが、足を止めてしまうことも多いのではないでしょうか。
でも、その「変えたくない」という気持ちは、本当に“守るべき価値”を守ろうとしているのでしょうか?
それとも、変化への不安や手間を避けたくて、無意識に“惰性”に流されているだけなのかもしれません。

だからこそ、今あらためて「保守」という言葉に、じっくりと向き合ってみたいのです。


保守とは、「何を、どう守るのか?」を問い続けること

変化の時代に、「とにかく新しければいい」というのは危うい考え方です。でも、「このままでいい」と思考を止めてしまうのも、やっぱり危うい。
大切なのは、何を守るべきか、どう守っていくのかを問い続ける姿勢。その問いに向き合う上で、カギになるのが「保守」という考え方です。

けれど残念ながら、日本社会には“本来の意味での保守”が、あまり育ってこなかったという現実があります。

日本には「思想としての保守」が育ってこなかった

ヨーロッパでは、フランス革命のような激しい社会変革への反動として、エドマンド・バークたちが「社会は少しずつ、段階的に改良すべきだ」といった保守思想を形づくってきました。
でも日本では、明治以降、近代化に向けて“とにかく追いつけ追い越せ”のモードが強く、じっくり思想を育てる余白がなかなか持てなかったのです。
つまり、ヨーロッパでは「革命への反省」から保守が生まれ、日本では「近代化への焦り」から突き進んできた。
そのスタート地点の違いが、いまの思想の風景にもつながっているのではないでしょうか。

「伝統」と「国家」が、過剰に結びついてしまった

明治期以降の日本では、天皇制や文化的儀礼などが“日本的伝統”とされ、それが国家のアイデンティティと強く結びついていきました。

結果として、「伝統を守ること」=「国家体制を守ること」という短絡的な構図が、社会に広く定着していったのです。
この流れの中で、本来の保守がもっているはずの柔軟さ、
たとえば・・「状況に応じて手段を変えるしなやかさ」や、「どの伝統をどんなかたちで引き継ぐかを自分たちで考える自由」など、そうした余地が、だんだん狭まってしまったように思います。

戦後、「保守」は“現状維持”のラベルになった

戦後の民主化と近代化の中で、「保守」という言葉は政治的なラベルとして使われるようになります。
つまり、左派=改革派に対する“変えたくない側”という位置づけですね。

それが定着してしまった結果、「保守=変化を拒む人たち、古いものに固執する人たち」といったイメージが広がっていきました。

でも本来の保守とは、「大切なものを守るためには、必要な変化も受け入れる」、「社会の知恵を受け継ぎながら、時代にあわせて姿を変えていく」、そんな、芯の強さと柔らかさをあわせもった姿勢だったはずです。

日本には「議論で思想を磨く」文化が根づかなかった

ヨーロッパでは、保守と革新が立場を違えてぶつかり合いながら、議論を通じて社会思想を磨いてきました。

けれど日本では、「対立を避ける」、「空気を読む」、「とりあえずみんなでまとまる」といった文化が強く、異なる立場同士で本音の対話をする機会があまりありませんでした。
そのため、保守と革新が“立場”としては存在しても、思想として深まる場面が少なかったのではないかと思います。

「保守」がナショナリズムや感情と混同されている

近年の日本では、「保守」という言葉がナショナリズムや感情的な立場とセットで語られる場面が増えてきました。
保守=「愛国心」、保守=「反リベラル、反グローバリズム」、保守=「自己責任論」といったある種の“情緒的な反応”が、保守として語られてしまう。

でもそこには、「何を、どう守るのか?」という問いがほとんど存在していません。
本来の保守がもつ、知的で慎重な姿勢が置き去りにされているように感じます。

地域に潜む「惰性」という構造

地域に目を向けてみても、「保守的」とされる反応が、じつは“惰性”であることがあります。
たとえば、ある町で新しい取り組みが持ち上がったとき、「前例がないから」「面倒になるからやめよう」という声があがることがあります。
もちろん、すべての反対が悪いわけではありません。変化には不安もあるし、守るべきものも確かにある。

でもその裏には、「合意形成が大変そう」、「責任を取りたくない」、「(変えて失敗した時の)批判を受けたくない」といった、無意識の“避けたい気持ち”が潜んでいることもあります。

こうした惰性が、「保守」という名のもとに正当化されてしまうと、本当に守るべき価値や未来への選択肢が、失われていきます。

政治の現場では「保守」と「革新」がねじれていることもある

ここで少し視点を政治の現場に移してみると、興味深い逆転現象が見えてきます。

たとえば、「保守」とされる政党の中には、社会保障制度の大胆な見直しや教育制度改革など、制度の根幹に踏み込むような変化を推し進める動きがあります。
一方で、いわゆる「革新」とされる勢力の中には、現行の制度に強く固執し、むしろ変化を避けようとする姿勢も見られます。つまり、「保守=現状維持」「革新=変化志向」といった従来の図式が、現実には逆転してしまっている場面も少なくないのです。

ここで私たちが本当に問うべきなのは、「誰が変えようとしているか」や「どの政党が守ろうとしているか」ではなく、「何を、どのような哲学で守ろうとしているのか」「その変化は、何のためのものなのか」という問いではないでしょうか。
制度そのものを守ることが目的化されれば、それは惰性です。
けれど、守るべき価値を未来に引き継ぐために制度を変えるのであれば、そこにこそ本来の保守の精神が息づいていると言えるはずです。


「保守」とは、変化を拒むことではありません。むしろ、「変わらなければ守れないものがある」と受け止め、問い続けることです。たとえその場にたった一人でも、「このままでいいのか?」と問いかける人がいれば、空気は、少しずつ、でも確かに変わり始めます。

本来の保守とは、ただ過去にしがみつくことではなく、ただ古いものを残すことでもなく、急激な変化に慎重になりながらも、未来に価値を“継いでいく”という誠実な営みなのだと、私たちは考えています。

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